利休と私


   一

 考えると利休があまり有名なので、こういう題は少しいやみにも思われる

し、それに自分を引き合いに出すので、どうかと思うが、実は必要が起こっ

て、一筆書いておくことにしたのである。

 先年、東京で民芸協会の全国大会があった時、谷川徹三君が来賓として挨

拶をしてくれた。その言葉の中に、「柳さんの名は後年利休や遠州と比べら

れるものだ」という意味のことを述べてくれた。人の噂さでは過日国立博物

館で脇本楽之軒の講演があった時、その中でも「柳さんは昭和の利休とでも

いうべき人だ」と話されたそうである。実はこれまでも時折そういう讃辞を

うけたことがある。所が、近時また北川桃雄君が「古美術」の再刊初号に、

私の仕事を利休のそれに並べて賞めてくれた。

 利休とか遠州とかいうような歴史に著名な人達と肩を比べて賞められて見

ると、有難くもあり冥加に余るとも思われ、これに過ぎた名誉はないとも云

えようが、実は正直に云って、どうも有難迷惑なのである。多くの美術批評

家がそう評してくれたのは、全く私に好意あってのことで、その点では重々

感謝したいのである。又自分で省みても利休や遠州のした仕事と縁の近いこ

とをして来たのであるから、比較されても致し方ないが、実はそれが私には

困るのである。

 或はこういうと、私が謙遜したり卑下したりして、そんな偉い人達と比べ

て貰っては、恥ずかしいとでもいうように取られるかも知れぬが、実はそん

な気持ちからではない。普通なら恐縮して、かくまで云って貰っては分に余

るとでもいうべきところだが、実は逆で、それを嬉しく思わないのみか、内

心大に不服なのである。私の仕事を価値付けようとして、全くの好意からそ

う評してくれたのではあるが、実は引き合いに出された利休や遠州を、常々

そんなにも有難い仲間だとは思っていないのである。何か不遜の言い方をす

るようですまぬが、彼等ぐらいの程度の仕事に止まってはならぬというのが、

私の予々の希いなのである。

 私は、何もそれ等の茶人達がつまらぬ人間だとか、文化に貢献するところ

が薄かったとか云っているのではない。恐らく私のようにいつも平の民間人

として仕事をしている者は、彼等のような高い貴族的勢力を得ることは出来

ないし、又彼等の才能の或る面には到底及びもつかぬ私である。彼等が高い

評判を得てきたのも尤もな次第で、何かにつけ美的文化に影響力のあった人

達である。特に「茶」の方では、神様に近いまでの位置を得て、彼等に随喜

の涙を流す人達さえ少なくない。「利休型」、「遠州好み」などいって、美

の標的にさえされている。

 だが、問題は彼等の業蹟が、私の満足すべき又傾倒すべきものであるかど

うか。又彼等の人格、彼等の鑑賞力が、そんなにも追慕されるべきものであ

るかどうか。これ等のことに対し私は大に懐疑的なのである。だからこそ私

には為すべき違った仕事、したい仕事が他に沢山あるのである。

 率直にいって、遠州の如きは歯牙にかけるほどのものでさえないと思われ

てならぬ。今日遠州流と呼ばれるものは茶道にも華道にもあるし、遠州好み

と云われる品々が数々残る。だが、それ等のものは何れも趣味の過剰が目立っ

て、美の本道からは遠いものだと云ってよい。下品なところはないまでも、

早くも堕落を想わせるものが多い。茶道は功罪相半ばしていると考えられる

が、その罪過の方は所謂遠州好みに由来するものがどんなに多いことか。中

にはいやみで、きざで、態とらしく、鼻持ちのならぬものさえある。彼は趣

味の人であったとしても、又美の愛好者であったとしても、正しく深い美の

理解者であったとは到底思われぬ。その遠州程度に私が成ったとて何の名誉

になろう。私を賞めて遠州を引き合いに出すのは、私を正しく見てのことで

あろうか。遠州程度では全くこまるというのが、私の予ての気持ちなのであ

る。だから遠州のようだ等と云われると全く閉口せざるを得ないのである。

彼のやったような仕事を打破して、もう一度美を本道に戻したいというのが

私の念願なのである。至らぬ私と雖も、遠州に目標を置くようなけちな仕事

はしておらぬつもりなのである。

 利休というと「茶」では神様のようにいう人が多い。近頃学術的な研究も

盛んになったが、初めから鵜呑みに無批判的に有難がっている人々が多い。

茶人はさておき、学者にさえ未だにそういう人が多いのは誠にこまる。桑田

忠親氏の『千利休』は客観的に利休を語ろうとする最初の好著だと云える。

併しそれでも見方は結局先入主を出ておらぬのはどうしたことか。今後はもっ

と多くの正当な批判が加えられてよくはないか。

 利休は大した才気のある人であったと思われる。性格も強くて傲慢なほど

自信があった人であろう。それだからこそ諸大名や武将を向うに廻して、彼

等を手玉に取ったほどの遣り手であった。何しろ一代の人気を得たのは、鮮

やかな力量の人であったことを語ろう。だからその影響は中々に大きく、今

日「茶」の存在が良くも悪しくも彼に負う所があるのは言うを俟たぬ。

 だが、どういう道を通って、利休はその位置を得たか、利休の生涯を見る

と彼は転々として当時の権門に仕えた。始めは信長に仕え、次には秀吉に侍

り、その他の諸大名、諸武将、さては豪商と歩き廻った。その時代としては

そうするより仕方なかったのかも知れぬが、併し権門を利用することを怠ら

なかった彼の生活に、既に不純なものがあったとも云える。純粋に茶の道が

立てられたというより、権門を利用して「茶」を栄えしめ、又「茶」を利し

て権門をあやつったとも云える。かくて「茶」は政治的に又経済的に活用さ

れた。「茶」を一世にかく躍らしめたのは、利休の如き才気がなくば不可能

であった。だが、そこに濁った様々なものがまつわっていたのも見逃すこと

は出来ぬ。

 かかる「茶」は「民衆の茶」では決してなかった。常に権力とか金力とか

の背景を求めた。大名とか武将とか豪商とか、それ等の人々を忘れずにかつ

いだ。又そうすることで「茶」を拡めた。「わび茶」とはいうが、一種の贅

沢な派手な「茶」で、主として富や力にものを云わせた。だが、かかる権勢

と結びつく因縁を持った「茶」は、本質的な「わび茶」になれるであろうか。

ともかく仏道が説く「貧」の茶とは遠いものであった。利休は真剣に道を求

めて、そんな金力や権力を決然と蹴ったであろうか。決してそうではない。

彼は好んで力に仕える「茶」を択んだ。或は進んで「茶」でその力を奪った

とも云えるが、権門や金力のために彼の「茶」が浄まったとか深まったとか

いうことは全くない。力や富と結びつく時、「茶」はいつも危機にあると云っ

てよい。今でも同じだが、金持が大茶人を以て任じるほど可笑しなことはな

い。何も金持が茶人になれぬとは云えぬが、金持であるということは宗教生

活の場合と同じように、大変な引け目の筈である。まして茶禅一味など説か

れる場合、「茶」と金権との関係は困難になる。高価な茶器を所持するから、

茶人になる資格が出てくるのではない。今も「茶」はとかく金持の「茶」に

なりがちであるが、正しい傾向とは云えぬ。太閤は一面慥かに風流を好んだ

人であろうが、どれだけ本当に美しさの分かった人なのか、黄金づくめの茶

室や茶器を誇ったほどの幼稚さがあった。十年ほど前、米国で日本の美術展

が催された時、愚かなことに日本から純銀製の茶道具一式を送ったことがあ

る。向こうで之ばかりは馬鹿にされ、流石日本贔屓のワーナーも之には困っ

たというが、誠にそうだったに違いない。どうも太閤を禅味に徹した大茶人

などとは義理にも云えぬ。彼を相手にして、社会的又は政治的位置を得たこ

とは利休を得意にしたかも知れぬが、同時に彼の「茶」を不純なものにした

ことは否めぬ。若しも権勢に媚びず、もっと民間に「貧の茶」、「平常の茶」

を建てたら、茶道はずっと違ったものになったと思われてならぬ。「わび茶」

は貧を離れては、よもや徹したものとはなるまい。力や金を利用したことで、

「茶」が普及したとも云えるが、そこに早くも「茶」の堕落が兆したとも云

える。今も「茶」は貴族的な「茶」に落ちがちであるが、一度は金力を茶か

ら追放すべきである。金力があってもかまわぬとしても、金力に敗れるよう

な「茶」は、「茶」たる資格を持たぬ。

 茶人としての利休の生活を見ると、どうもその態度に幇間くさいものがあ

るのには閉口する。「茶」は権門を利してもよいが、同時に利さなくとも差

支えない「茶」でなければならぬ。思うに、利休は腕の人であったが、人格

的に浄い又は高い人であったとは思われぬ。寧ろ俗なことが平気で出来た人

であろう。それも無邪気からでなく、づうづうしく行ったであろう。遣り手

であるから一面には太閤などを腹で馬鹿にしていたこともあろう。残る手紙

の文面にもそういう様子がはっきり見える。併し同時にその権力を利用する

ことを決して忘れなかった。利休が太閤から死を命ぜられたのも、その横著

と傲慢とが祟ったのであろう。世間でもそれが感づかれていたのか、彼が自

刃した時、彼に同情する者はいたく少なく、自業自得だと評する者が多かっ

たのである。近時発見された当時の人の日記を見たが、利休の死因を二つ挙

げている。一つは大徳寺の山門に自分の肖像を掲げて、太閤の激怒をかった

こと、他の一つは「まいす」のためだと書いてある。この日記は利休が自刃

したその日に書かれているので、当時の人の考えをぢかに知る上に貴重な文

献である。「まいす」とは「売僧」の意で、商売する僧侶を罵っていう言葉

である。つまり、利休を「まいす」と呼んだのは、彼が自己の位置を利して

しばしば賄賂をとったり、道具の売買の上前をはねたりしたことを指すので

ある。利休には平気でそういうことをやりかねない性質があった。こういう

ことが世間に反感を抱かせた原因であろう。利休の死については色々その理

由を述べる人があるが、私は当時の人のこの日記にある二理由が一番自然な

ものと思われてならなぬ。殺され憎まれる種が利休に沢山あったと云ってよ

い。結局、権門に媚びることを怠らなかった幇間的な彼の暮し方を私は好か

ない。彼は人格の浄かった人、深かった人とは到底云えぬ。一寸今で云えば

魯山人に輪をかけたような人間であったであろう。中々の遣り手ではあるが、

結局は、俗気の人で、禅の心境などからは随分かけ離れた人間であろう。道

元禅師はその『正法眼蔵』に強くこう云った。「道心ありて名利をなげすて

ん人いるべし」と。つまり名利に仕える如き人間は山内には入れぬというの

である。利休は禅を習ったというが、名利を求めることを決して忘れなかっ

た。洗ってみれば結局野狐禅に過ぎなくはなかったか。そういう利休のよう

な人間に、なりたくないというのが私の考えである。だから、利休に比べら

れても、私には名誉にならぬ。有難迷惑だというのはその意味である。

 だが、好意ある私への評言は、美のよい見手だという点で、私を利休に比

ぶべき人間だと云ってくれているのかも知れぬ。利休は果してどれだけ本当

の美の分かった人であったか。遠い昔の人のこととて何もはっきりは云えぬ。

利休の言行を録した『南坊録』なるものが残るが、これは学者の説だと偽書

だという。読んでみると、なるほどあやしい所が眼につき、どこまでが信頼

してよい本なのか分からぬ。所がこの本の長い解説を書いた西堀一三氏は、

これをまるきり真書だと考えてか、利休の言葉に一々意味をつけ勿体をつけ、

無上に有難がっているが、果たしてどんなものか。彼をぢかに判断する道が

あれば、彼が愛したという茶器、彼が作らせたという茶室、彼が試みたとい

う器物、それ等を通して彼の眼を見るに如くはない。今の茶人達の大部分は、

無条件に彼を大した美の理解者だと思い込んでいるのである。私は何も彼を

鈍い眼の人だとか、くだらぬ美より分からなかった人だなどとは決して思わ

ぬ。相当鋭い眼の持主であり、又遠慮なく、よいと思うものを活かして用い

ることの出来た人であったと思う。併し彼のみが開拓した美の世界がどれだ

けあったのか。彼の愛した器物に、どれほど独創的なものがあったか。誠に

「大名物」などに美しいものが数々あるが、彼以前の茶人達、例えば紹鴎な

どにも既に十分認められていたものではないか。初期のそれ等の茶器の美を、

利休の眼力にのみ帰してよいのか。彼のほかにも眼利が決して少なくはなかっ

たのである。結局、造作にほかならぬ楽茶碗などを彼が熱心に作らせたこと

を思うと、どれだけ無造作の高麗茶碗が見えていたのか。彼が用い愛したと

いう器物を通して考えると、彼は慥かによい見手の一人であったろうが、併

し彼のみが見手であるとか、彼以上の見手はないとか、彼に見誤りがなかっ

たとかは断定出来ぬ。彼が為したぐらいの選択を、私はそう恐ろしいとは思

わぬ。

 多くの人々は、例えば北野の大茶会の記事などを読んで、大した名器が出

揃ったように考える傾きがある。なるほど三百年の前は今からすれば醜いも

の、俗なものの少なかった時代であるから、当時の茶器が、何れも相当に佳

い品であったろうと推察することは出来る。併し彼等の愛した品の数も種も

そんなに豊富なものではない。昔は交通が今のように便宜ではなく、従って

品物の交流も今のように活発ではなかった。彼等の得た眼福は、今の私達か

らすると随分限られたものであった。現在の吾々の方が、どんなに沢山佳い

品物を見る機会に恵まれているから分からぬ。もとより今は醜い品も同時に

多くなってはいるが、考えるとこれで一段とはっきり良い品が眼につくとも

云える。私達は遥かに容易に又多量に支那や朝鮮や日本のものを見ることが

出来、加うるに、西洋のものですらしばしば手にすることが出来る。まして

書物や雑誌などの挿絵や記事は、真に比較出来ないほど多くの智慧を私達に

与えてくれる。かかる意味で、私達の方が利休などより、どんなに多く美し

い品々を見ているか分からぬ。そういう恵まれた境遇にいる私達が、利休の

眼の働きぐらいに止まっていては相すまぬではないか。今の多くの茶人達が

ひとえに利休を追って、あがきがとれなくなっているのは、誠になさけない。

北野の茶会で用いられた器物と、例えば民芸館に列んでいる品物とを比べる

と、実は後者の方がずっと美しさの質に於いて種に於いて豊富なのは当然だ

と云える。なぜなら、北野の茶会に現れた品は当時の「茶」に直接関係する

ものだけに限られていたから、その範囲は知れたものである。だが、私達は

もっと沢山、もっと広く、美しいものを容易に選ぶことが出来る。然るに今

の茶人達はこういう平明な事実をすら認めない。実に不思議であるが、民芸

館の蒐集の価値を見得ている人は僅かよりいないのである。目前に利休時代

より恵まれた環境で、「茶」という狭い限界からも開放されて、自由に選ば

れた見事な品物が沢山列べられていても、その値打ちを見ることを知らない

のである。

 こういうと甚だ不遜のようにも取られようが、利休の愛したものと、私の

愛したものとを比べてもらうと、私の品の方が色々な点で遥かに豊富だと思

われてならぬ。これは決して自慢ではなく、時代の恵みによって当然そうな

る筈なのである。利休だって今いるとしたら、決して昔愛していたものなど

に局限されてはいないであろう。若し彼が本当の眼力の人なら、そこに止ま

る筈がない。民芸館の品を見たら、心を踊らせて沢山そこに新しい茶器を見

出すであろう。否、更に形の違った「茶」を考え出したかと思われる。

 私は何も利休を只のつまらぬ人だなどと決してけなしているのではない。

利休は利休として認めてよいが、利休程度の仕事に自分の仕事を止めるわけ

にはゆかぬ。三百年も後に生まれた私は、当然利休が果たし得なかった仕事、

利休以上の仕事を果たすように努めるべきである。まして彼の疑わしい人格

を手本などにすることは、平に御免である。至り尽くす峯はまだ遠いとして

も、利休に比べられて有難がるようでは誠になさけない。

 それで私の仕事を利休や遠州に比べてくれるのは全く好意あってのことで

はあるが、そういう茶人達のやった仕事ぶりに止まりたくないと予々念願し

ている私にとっては、決して名誉ある比較ではないのである。誰か出て柳の

仕事は大に違うのだと解明してくれないものか。その時こそ私は本当に恐縮

するであろう。


                   (打ち込み人 K.TANT)

 【所載:『心』 昭和25年11月号】
 (出典:新装・柳宗悦選集 第6巻『茶と美』春秋社 初版1972年)

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